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『ナイト&デイ』(2010年/米)~嘘八百万の愉楽

初めから何かおかしいと思ったんだ。
これから本編ずうっと土壇場が控えてるはずのトム・クルーズが、普通にアイスかじってるところから。
ん?アイス?随分と余裕なんだなあ~と思ってたら…見事にワタクシ、ノックアウトされました。
何かおかしいくらい面白いです、この映画。

普通に面白く出来たハリウッド産アクション映画だと思って油断していたのが良くなかった。
ヒッチコックが大好きな僕。
つまり、ありえない嘘を上手についてくれる映画が大好物だったのを忘れてました。
この『ナイト&デイ』は、嘘八百×10,000倍で愉しませてくれる最高の娯楽映画です。
映画そのもの=<絵空事>が110分間、徹頭徹尾持続するのを観られるのは、快楽以外の何物でもありません。

ヒッチコック的な荒唐無稽の巻き込まれ型+追いかけられ型サスペンスを、
2010年型の映像技術とスピード感にモディファイした、近年最高の超痛快作。
ヒッチコック作品がそうであるように、話がわかっていても何度観ても楽しめる。
そんな娯楽映画に、予期せず出会えたのが嬉しい。
もう一度言います。
おかしい出来事が、おかしいくらい続けて起こって、おかしいくらい面白いです、この映画。

そうそう。巻き込まれるのが男じゃなくって女なのも21世紀型?
あ~早くもう一回観たい!

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『ハピネス』(1998年/米)~少年よ、デッカくなれよ!(いろんな意味でw)

米国の奇才:トッド・ソロンズ監督作品。
独特のシニカルな可笑しさと醜悪さ、絶妙な演出の間合いに、ファースト・シーンから引きずり込まれます。
登場人物それぞれに、一筋縄ではいかないキャラクター造形が行き届いていて、
群像劇としてとっても面白い。
人によっては(特に女子?)目をひそめるほどの、徹底した醜悪ぶりも中途半端じゃないからかえって潔いのです。
潔い醜悪さ!何じゃそりゃ(^^)

ここに描かれた、敢えて紋切り型の言い方をすれば、<病んだアメリカ>なるもの。
それが既に、かの国の生活のデフォルト値になっているような気がしてきて、
ニヤニヤ笑って観ながらも、ちょっと怖い気分にもなる。
そのあたりの絶妙な落としどころが、この監督の上手いところなのかもしれません。
個人的には、ノーマルな幸せを1ミリたりとも信じて疑わない、
精神科医の妻:トリッシュを演じたシンシア・スティーヴンソンの訓練されたような笑顔に
アブノーマルを感じて一番怖かったです…。

逆に一番シンパシーを感じるのは、世界共通の思春期の悩み
(↑え~、これはこんな風に紋切り型の言い方にしてますが、そこはトッド・ソロンズ流の真骨頂!)
にさいなまれる息子くん!
少年よ、どんなことにも負けずに、たくましくデッカく生きるのだぞ!

『あこがれ』(1957年/仏)~トリュフォー一流の瑞々しさ溢れる短編

トリュフォー初期の短編。
冒頭の素晴らしい自転車のショット、子供たちの無邪気な遊びの可愛らしさ。
デッサンのような映画だけど、トリュフォーらしい瑞々しさはここでもたっぷり味わえる。

例えるなら、旨い蕎麦屋でぱっとつまみ頼んできゅ~っと日本酒やって蕎麦すすって長居せずに帰る粋。
よってレビューもこれにておしまい。

『潮風のいたずら』(1987年/米)~ザ・ゴールディ・ホーン・ポップコーン・ムービー!

『プリティ・ウーマン』のゲイリー・マーシャル監督と
ゴールディ・ホーン&カート・ラッセル(←『デス・プルーフinグラインドハウス』最高だったね!)ご夫妻が
タッグを組んだ、とってもアメリカらしいコメディ。

映画っていうのは監督の作家性云々ももちろんあるんだけど、
こういう映画を観ると<やっぱキャスティングって大事よね~>と再認識するくらい、
“ザ・ゴールディ・ホーン”な1本。彼女なしには有り得ない映画だと思います。
加えて共演のダンナ様:カート・ラッセルはもちろん、脇役陣もピッタリ。
休日の昼間に愉しむにはもってこいのポップコーン・ムービー(もちろんホメ言葉!)
劇中で、バドだかミラーだかのビール瓶の栓をテーブルの端っこにひっかけ、
栓抜きを使わずにひっぱたいてパコーン!と王冠を抜いて、瓶のまま飲むところがある。
あれ、真似した~い(^^)/♪

TV業界も安易にヒット漫画に原作を求めるだけじゃなく、
こういう佳作を元ネタに換骨奪胎したドラマを作ればいいのになあ。連ドラ向きですよ、このストーリー。
子沢山&男やもめの大工さんと焼酎(今だったらハイボールでも旬!)なんて飲んだ事が無い富豪の若奥様。
ね?格差拡大・不況続きの今の日本に置き換えたら何だか面白そうじゃありません?

あ、問題は日本のゴールディ・ホーンがいるか?ってことか。


『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985年/米)~ふたつの世界が交差するサスペンス

オーストラリア出身の名匠:ピーター・ウィアー監督と当時全盛のハリソン・フォードが組んだ刑事ドラマ。
ペンシルバニア州に暮らす、前近代的で質素な生活と敬虔な信仰を信条とするアーミッシュの人々を描き、
スリリングなサスペンスと詩情に溢れた傑作である。

もちろん、刑事ドラマとしてのサスペンスが背骨にはなっているのだけれど、
<相容れない世界に住む者同士が、互いの世界に足を踏み入れる>ことによって生まれるサスペンス。
これこそが、この映画の美しい緊張を途切れることなく持続させる力となっている。

まず、冒頭の素晴らしい導入シーンに目を奪われてしまう。
柔らかく揺れる草原の草によって上下に分割された抽象的な風景。
そこを、ロングショットで捉えたアーミッシュの人々が、右から左へと静かに、すべるように横切っていく。
このファーストシーンでは、彼らはこちら側に向かって来ない。
ただ僕らの眼前を通り過ぎていくだけの存在、こちら側の世界の住人ではない存在として登場する。
時代感が掴めない光景から、やがて米国の現代文明の象徴であるクルマと彼らの馬車が同居するショットへ。
この冒頭からの見事な流れによって、僕はアーミッシュの異世界へと否応なしに引き込まれてしまった。

謎解き映画ではないので、事件の真相は比較的早い時点で明らかになる。
最早<相容れない世界の住人>になってしまった<道を踏み外した者>との戦いが、刻一刻と迫るサスペンス。
主人公ブックと事件の目撃者の男の子(この子役の瞳の素晴らしさと言ったら!)の母親とが抱く、
互いに<相容れない世界に住む者>同士の、道ならぬ慕情の行方という、もうひとつのサスペンス。
このふたつの、全く異なるようでいて実は同質のサスペンスの見事な併走が、本作を傑作たらしめている所以だ。

中盤でたっぷりと描かれるアーミッシュの生活は、僕たちに知らない世界を教えてくれると同時に、
やがて訪れる対決の時を、劇的に盛り上げる重要な役割をになっているように思う。
ついに敵が現れた時、観客は彼らが、アーミッシュの言うところの“イングリッシュ=相容れない世界の住人”
すなわち邪悪の象徴として感じてしまうまで、アーミッシュの世界へと足を踏み入れてしまっているのだ。
導入シーンと対になるような、見事な悪役の登場シーンである。
そして僕たちは、主人公ブックの心情の変化とピタリとリンクして、クライマックスへと導かれて行く…。

ふたつの<相容れない世界>が交差するきかっけとなった「事件」が終わった時。
再び、ふたつの互いに決して相容れない世界が、たち現れる。ゆるぎない現実として。
では、果たしてすべては事件前と何一つ変わらない世界に戻ったのだろうか?

「イングリッシュには気をつけろ」

ふたつの世界の隔たりは、何人なりとも動かしがたい。
しかし、互いに心を通わせた確かな「証」は残った。

『冬の嵐』(1987年/米)~ミステリ好きを裏切らない舞台装置

アメリカン・ニューシネマの代表的監督で、『俺たちに明日はない』(1967)で知られるアーサー・ペンが亡くなった。
もちろん『俺たち~』も大好きな作品だけれど、ミステリファンとして追悼鑑賞に選んだのが『冬の嵐』。
雪に閉ざされた邸宅という、直球ど真ん中の舞台装置で繰り広げられる、洒脱なミステリ映画である。

主演はメアリー・スティーンバージェン(ドイツ読みだとステーンバーゲン)。
僕の中では、ナンバーワン“優しいお母さん顔”女優さんの彼女が大活躍します。
(ちなみにナンバーワン“おばちゃんになってもかわいい性格の嫁さんキャラ”女優さんはマリサ・トメイ!)

どう大活躍かって言うと、これが正真正銘の大活躍なのだが、
これもまた本作の愉しみのひとつなので、ここでは伏せおくことにする。

ところで。どうして雪に閉ざされた邸宅や山荘がミステリの舞台になりやすいのか?
これにはいくつかの理由があるだろう。例えば

●ミステリの代表的な装置である<密室>を自然に構成しやすい。
●閉ざされた空間によって舞台と登場人物が制限され、物語の進行を明解にしてくれるので、読者ライク。
などなど。

でもまあこのような理由だけなら他にもいろいろ考えられるし、
逆にその方がありきたりに思われず、作者の創意を発揮しやすい。

僕はここに、“凍えるような空気”という、得がたいキメの一塩が加わるからこそ、
雪に閉ざされた家屋がミステリの舞台装置として魅力的であり続けているのではないか、と思う。
身も凍るような事件は、やっぱり凍えるような設定で起きてこそ味わいが増すもの。
「通ではない」と言われようと、キンキンに冷えたビール好きとしては(^^)、実にそう思う次第であります。

メアリー・スティーンバージェンの冷たく透き通るような白さは、この味わいを一層引き立てている。
彼女の存在あってこそ、アーサー・ペンは『冬の嵐』の類型的な舞台装置をあえて選ぶことが出来、
いかにもミステリアスな冷たい空気感・雰囲気を、フィルムに定着することに成功したのではないだろうか。

暑かった夏も喉元を過ぎ、近頃はだいぶん涼しくなってきた。
そんな秋冬シーズンの真夜中に、お気に入りの洋酒を片手に楽しむには最適の佳作。

『インセプション』(2010年/米)~仮想を生きる

やっと『インセプション』観れた。面白かった。
『マトリックス』的に見えて、実は真逆の思想を持った映画だと思った。

『マトリックス』が外付けサーバ内にデザインされた仮想世界が舞台なのに対して、
『インセプション』は人間自らの脳内の仮想世界(=夢)が舞台。
ネット社会の成熟期に入りつつある今。
現実と非現実の境界を描くために、人間そのものの知覚をテーマに選んだクリストファー・ノーランは卓見だ。

この映画を観て思ったこと。
ネットやゲームなどの仮想世界に引きこもって抜け出せなくなる
(それが諸悪の根源のようにメディアは安易に結論づけたがるが)、
というのは、仮想世界の発展期固有の経過的症状で、
今後はそういう一方向的な受け入れ方はどんどん古くなっていくんじゃないかと。

『マトリックス』が外付けの仮想世界で無限の可能性への“跳躍”を渇望したのに対し、
『インセプション』は、仮想を否定も肯定もせず、ただ受け入れ、そして現実への“着水”を求める。
ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』から四半世紀、『マトリックス』から10年を経て、
遂にここに至った事に感動した。

『インセプション』についてツイートする。ブログに書き込む。
ネット社会が発達しなければきっと出会えなかった人たちと共有する。
実際には逢えないかもしれない仮想的で非現実的なつながりに見えたとしても、
僕にとっては紛れもなく、「これは現実」である。
『インセプション』を語るに、これ以上相応しい場所はない。

クリストファー・ノーランには、この冴えが衰えないうちに、是非ともコニー・ウィリス『航路』を映画化して頂きたい。

『エル・トポ』デジタルリマスター版(1969年/メキシコ)~聖と俗、自愛と残酷のテックス・メックス

『エル・トポ』デジタルリマスター版を観た!『サンタ・サングレ』に続いて2本目のホドロフスキー作品。
ジョン・レノンも絶賛したカルト・ムービー制作40周年記念上映だ。

堕落と救済という普遍的なモチーフなんだけど、
それを普遍的どころか徹頭徹尾超個人的なヴィジョンで可視化したのが独自の地平に到達した所以。
脈略・整合性より描きたいイメージ優先だから、カオスっちゃあカオスなんだけど。
でもカオスで2時間持たせるって、大変よ。

あまり詳しくないので私見だけど、ホドロフスキーにとっての<生>とは、
“聖”であると同時に“俗”、“慈愛”に満ちていると同時に“残酷”でもある、
永遠の矛盾なんじゃないかなあ。
そうでなきゃあんなに綺麗で汚い映画作れないと思う。

あと、精神と肉体が無意識に統合されていること
(四肢に対する運動指令の伝達や、
性欲をはじめとする本能=意志とは無関係に生体反応してしまうもの
を含むフィジカルとスピリットの関係)
に、ホドロフスキーは違和感や不思議を過敏に感じていたんじゃなかろうか。
だから異性愛・同性愛・親子の愛憎・近親相姦・身体障害・信仰などは、汗で張り付いた砂漠の砂のように、
べったりまとわりついて離れない呪詛のようなテーマになったのかもしれない。

そのあたりはまた、『ホーリーマウンテン』を観た後にじっくり考えてみようかな。

『ONCE ダブリンの街角で』(2006年/アイルランド)~優しくて切ないハーモニー

またひとつ、素敵な映画に出遭った。
アルランド映画「ONCE ダブリンの街角で」。

プロを目指してストリートで日銭を稼ぐ彼(guy)と、
チェコから移住してきた素朴でいてどこか陰のある彼女(girl)。
名前さえ与えられていない主人公ふたりが、音楽を通して心の底から響きあっていく。

こう書いてしまうと、あまりにも普通だ。普通過ぎる。
実際、劇的な何かが起こるわけではなく、ミュージシャンの卵たちをデフォルメも矮小もなく描いてく。
それが、どうしてこうも感動的なのだろう?

ある意味では、この映画の主役とも言える素晴らしい音楽。
劇中の音楽が、巧みなシークエンスの積み重ねによってサウンドトラックそのものに変容し、
シナリオを超えたエモーションを作り出していく。
こうして文章にしても、絶対に再現できない純粋に映画的な感動が、途切れることなく続く幸せな90分間だった。

ただ音楽を共に紡ぎ、ハーモニーを重ね合わせたこと。
ささやかだけれど、きっと彼・彼女にとっては 一生忘れることの出来ない日々になったんだろう。

「愛し合う」というよりも「通じ合う」ということ。
彼と。彼女と。家族と。バンド仲間たちと。ただの仕事として関わったエンジニアと…。
たくさんの素敵な「通じ合う」が詰まった、とてもとても優しい映画。
どのシーンも素敵で、一体どうやって終わるのだろう?と思っていたが、
素晴らしいラストショットに、今も余韻が残っている。

『オーシャンズ11』シリーズ~おシャレさんを眺めるのはキライじゃありません

シリーズ第1作“11”は観ていて、サントラも気に入って買っていたのだけれど、
続く“12”と“13”は取り立てて早急に観る必要性も感じず、何とな~く観そびれていたのである。

というのも、“11”は面白いは面白いんだけれど、「どこが面白いのか?」と改めて考えてみると、
ハッキリこれだ!と言い切れるものがなかったからだ。
んでもって「う~ん、音楽は良かったかなあ。」→サントラ購入、みたいな(何じゃそりゃ)。

そのあたりのぼんやり感は、 今回DVDでぶっ続けで続編2本を観ることではっきりした。
つまりこのシリーズは、スティーブン.ソダーバーグという非常に優秀な監督が
大粒のダイヤを連ねたネックレスのようにスターを集めて、
「映画という“洋服”は、こうやって着るもんだぜえ~。」 と、その<着こなし>を見せているのだ。

「トラフィック」のような硬質な映画が撮れる監督だから、
これだけの豪華キャスティングで<隙の無い>着こなしをすることも、もちろん出来るハズ。
でもそれじゃあ、<粋>じゃない。
何せモチーフは「オーシャンと仲間たち」、TPOを考えたら、ここはドレスダウンしなきゃ。

かくして。
人によっては賛否真っ二つの、ユルいようで センスだけは何だか超一流?の映画が出来あがった、という訳だ。

ゴージャスなアクセサリーや時計や高級服を、 見せびらかすのではなく、何気なく身につけちゃっている余裕。
“12”はちょっと着崩し過ぎじゃないかい国母選手? という部分も無いではなかったが、
“13”ではちょっとふり戻して、さすがに腰パンは止めたようで。
どこぞのギョーカイ的な気障なジャケットスタイルという、本来のちょいヤラし目のお洒落になっていて良い。
「周りにこんな奴いねえよなあ~」とか言いながら UOMOをパラパラ眺めてる、
あのつもりで観るのが、このシリーズの正しい楽しみ方である。

カット毎のクオリティは一流でUOMO(←例えです、例え!)であることは一目瞭然。
それらを、出来そうで出来ない絶妙なユルさのショットの積み重ねに構成し、
要所要所でピリッと締めてくるところが気障(でニクい。)
その気障なエモーションを、編集と同じくらいの重要度をもって支えているのが、洒脱な音楽だ。

映画史に残る作品、とかいう類のものではないにしても
「同んなじ服でも、着る人でずいぶん違って見えるもんねえ」と関心しながら観られる娯楽作品があってもいい。

だってお洒落な人って、見るだけで楽しいでしょ?

『ONE PIECE エピソード・オブ・チョッパー・プラス 冬に咲く、奇跡の桜』(2008年/日)

いまさらながらの大人気マンガの、 いまさらながら最高傑作の呼び声も高い劇場版映画を観る。

すっかり大長編となってしまった原作は、改めて参入するには気が引けていたし、
特殊能力などの人物設定に、いまひとつ入り込めなさそうな自分もいたりして、敬遠していたONE PIECEの世界。
「映画だったら、ヒットの覗き見くらいは出来るだろう」と、鑑賞してみたが…

大人の男にもぐっとくる描写が満載で、(ちょっと泣き過ぎるきらいもあるけれど)
主人公たちの<おちゃらけ>と<真顔>のバランスがとれた キャラクター造詣も魅力的。
なるほどこりゃあ人気が出るのもうなずける、と大いに納得した次第です。

原作は未読だが、

<友情・努力・勝利>

この有名な3原則を今の時代に受け継ぐ、ある意味で実に正統的な“週刊少年ジャンプ”の後継者なのだろう。
「リングにかけろ」「北斗の拳」「スラムダンク」…
昭和~平成のニッポン男子のDNAを揺さぶり続けてきた <“ジャンプ”という思想>。
それが近年最も高純度に含有されているのが、この作品なのだろうと思う。
映画からも、そのヒットの秘密が垣間見られた2時間だった。

ところで、ルフィたちが捜し求める 「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」とは何か?
僕は、それは<かたちあるもの>ではない気がしている。

お互いそれぞれが“バラバラ”な<夢>を抱きながら、“ひとつ”の<宝物>を求めて旅を共にする主人公たち。
冒険を重ね、いつか彼らは、決して壊れることのない、<永遠の絆>を手にするだろう。
それがきっと、真の大秘宝に他ならないのだと思う。

「俺たちはもう、どこにいても、ひとつ(ワンピース)なんだ。」

そう確信した時。ルフィたちの旅は終わり、それぞれの<夢>に向かって、世界へと散開していく。
この大長編の幕切れは、本の扉は閉じられても、物語はずっと続いていくような、
そんなネヴァーエンディング・ストーリーこそが相応しい。

彼らが手にするだろう秘宝は、<かたちあるもの>ではないから、どんな海賊にも、決して奪うことは出来ない。

『世界で一番パパが好き!』(2004年/米)~頑張ってるお父さんにこそ観て欲しい

お馴染みの常套句=「世界で一番~」に便乗した娘目線の邦題と、
導入部分の娘の作文ナレーションによってミスリードされちゃあいけません。
この作品のカギは、原題の『Jersey Girl(ニュージャージーの女の子)』にあり。
実は父親目線の物語であり、頑張ってるお父さんにこそ観て欲しい1本。

主題歌を歌ったブルース・スプリングスティーンの歌でも煩瑣に描かれるNY←→ニュージャージーの対比。
それは、きらびやかなマンハッタン・ライフと、実直で平凡な田舎生活の二項対立の関係性だ。
アメリカン・ドリームの栄光と挫折が、川ひとつ隔てただけで並んでいる。
それが、NYとニュージャージーの相関図であり、この物語を動かしている地理的・人物的な構造となっている。

娘の誕生と同時に愛する妻を失った元レコード会社のエリート宣伝マン。
キャリアウーマンだった妻は、タイトルにならうなら生粋のニューヨーク・ガールだ。
彼女への消えることの無い愛情は、かつてのマンハッタン・ライフへの主人公の未練とも重なり合う。

一方。亡き母親と同じ名前をもらった娘は、母親もマンハッタン・ライフも知らない生粋のジャージー・ガールだ。
そしてそこに、レンタルビデオ屋のアルバイト学生という、もう一人のジャージー・ガールが登場する。

二人のジャージー・ガールとの関係を描く事。
それは、かつてニューヨーク・ガール、マンハッタン・ライフを夢見て飛び出した主人公が、
故郷ニュージャージーにおける第2の人生と、どうやって向き合っていくのかを描く事に他ならない。

この映画のテーマは娘への愛情であると思うが、
そこに男にとっての人生の理想と現実を巧みに重ね合わせる事で、
気楽に楽しめる作品でありながら、なかなかの奥行きを持たせる事に成功している。

娘を含む女性キャスト数の少なさに対し、明らかに偏った男性キャストの数。
例えば、主人公の父親もまた“やもめ暮らし”(おそらく早くに妻を亡くし、男手ひとつで主人公を育てた)。
そこに、片親の主人公の親代わりでもあっただろう父の友人2人が加わる事で、
娘にとって家の中は、父・祖父・おじちゃん二人という、都合4人の男=父親的な存在で埋められる。
このアンバランスは、“妻・母親の不在”という悲しいアンバランスを強調する構図として機能しているのだ。

このような人物配置に導かれ、愛すべきエピソードの数々を楽しんだ後、
エンドロールでクレジットされる監督のコメントを観るに至り、
「ああ、これは娘の物語ではなく、父親の物語だったんだな。」という思いが、心地よい感動を伴って心に残る。

僕は男だから、同性の目線でこの映画を観ることが出来たけど、女性がこの映画を観たら、どう感じるのだろう?おそらく男の感想とは随分違うんじゃないだろうか。娘としての立場で見た感動も、きっとまたいいものだろう。
家族向けである以上にカップル・夫婦向けの映画かもしれない。

撮影監督=名匠ヴィルモス・ジグモンドのキャメラは相変わらず美しいし、
昔取った杵柄で、地元市民の苦情を主人公が元・有能宣伝マンらしく弁舌鮮やかに説得するシーンが、
後々のさりげない伏線になっているところなど、シナリオのツボの押さえ方も粋である。

「まったく、試練が多すぎるよ!」と笑って駆け出す主人公の優しさと強さに、思わずじんとくる佳作だ。

『アルフィー』リメイク版(2004年/米)~自業自得は朝青龍のみにあらず。

マイケル・ケイン主演作のリメイク(オリジナルは未見)。
本作のジュード・ロウも先代も、ちょっと気持ち悪いカッコ良さの持ち主で、大いに共通項があります。

お話は次から次へと女を渡り歩く伊達男の物語。
映像は綺麗で、お洒落映画に必要不可欠なムードを遵守した仕上がりになってます。

さて。観終わった感想を四字熟語で言うなら、

“自業自得”(^^)

面白かった・ハラハラした・泣けた・笑ったetc.
大抵は、こうした喜怒哀楽に関わる感想になるのだけれど、
映画を観て、「自業自得だよな~」っていう感想になるというのは、
個人的にはとても珍しいことであった。

ところで、主題歌を歌うのは御大ミック・ジャガー。

世界中に私生児を作って、「俺が養育しちゃる!」と全員認知して養っちゃっている、
“男の甲斐性”のお手本のような ミック翁の歌声のに、
主人公アルフィーの生き様よりも、 伊達男としてのスケールの大きさを感じてしまいましたとさ。

<本作のめっけもの>
ガールフレンドの一人を演じたマリサ・トメイは
もう40をとっくに越えているのに可愛らしくて素敵です。

『銀河鉄道999』と『エヴァンゲリオン』

 古き良きアニメ映画『銀河鉄道999』。もう31年も前の作品だから、技術的な部分で今のアニメと比較してもしょうがない。鉄郎やコナンような、素直な正義感が子供たちの心を掴んだアニメ幼年期の終わり。その素朴さも含めた郷愁。そして、この時期にオーバーラップして、戦うことに自問自答するアムロ・レイが登場してくる。
 
 今や巷のヒーロー/ヒロインは、内面的にも外面的にも星野鉄郎やコナンよりも遥かに複雑な事情を抱えながら戦わざるを得ないから大変だ。その極北が『エヴァンゲリオン』だったのかな?

 あまりにもブームになりすぎて、再放送時に「どれほどのものか?」と、かえって冷静に見てしまった『エヴァンゲリオン』。言われるほど難解だとは思わなかった。面白かったけど。<難解に見せよう>とする意匠そのものに反応し、「わけわかんねえ。」と面白がることそれ自体が伝染したヒットのように感じる。

 私見だけど、『エヴァンゲリオン』の敵=使徒(だっけ?)は、とどのつまり、自分の内面にある戦うべきもの(=ひとつ例を挙げるならコンプレックス)が外面に敵の姿かたちで顕在化したものだと思った。そして、そのように観ると、あらゆるエピソードがすっきりと観やすく変容した。
 だから、この作品の語りやすい=盛り上がりやすい<難解さ>の頂点であるラスト2話は、実は非常に良く出来たオチ。だって、「どんなにコンプレックスを持っていたって、君は君でしかない。それでいいんだよ。」って完全に自分を肯定してくれる拍手喝采の嵐。そりゃ使徒は影も形もなくなるよ。
 
 そうした観念的な自己否定←→自己肯定のテーマを、ロボットアニメの枠に組み込んで(それは既にガンダムでも萌芽としてあったが)、そこにTV連続放映もののアニメ表現(技法・手法を含む)そのものにも言及するメタ・アニメ的な要素も含みながら暴走したのが、僕にとっての『エヴァンゲリオン』だ。
 
 以上の『エヴァンゲリオン』考は、あくまで最初のTVシリーズのみを観た感想。その後の様々なバリエーションについては、良く知りません。すみませんっ!しかし今となっては『ONE PIECE』のような、僕にもわかる素直な正義感を持った作品の方が希少で、だからこそあれ程のメガヒットになったのかも。
プロフィール

jinbonham

Author:jinbonham
ハリウッド大作から
ミニシアター系まで
好き嫌いなし!で愉しんでます。
ツイッターでは映画に加え、
音楽・ミステリ・SFなど
仕事と趣味を
織り交ぜてつぶやき中。

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